ヨハネの福音書を学び続けています。主イエスはご自分のことを常に神の御子、キリストであることを様々な表現で紹介しておられます。それらに注意深く耳を傾ければ、イエスこそ神であり、救い主であることがわかるのですが、当時の宗教的指導者は、イエスの話を心を開いて聞きませんでした。それでイエスを正しく理解せず、信じられなかったのです。
I. イエスは上から来られた方であり、この世の者ではない
イエスは御父から遣わされた方であり、従って上から来られた方です(23節)。イエスは初めからこの世の者ではなく、これに対して、パリサイ人たちは下から来たのであり、この世の者です。彼らがイエスを信じなければ、やがてイエスを捜すことがあっても、自分の罪の中で死に、イエスのおられる所に来ることはできません(21節)。大切なことは、ただ神を信じるのではなく、イエスを神の御子、キリストと信じることです。それ以外に罪から解放されて、いのちを得ることはできません(24節)。この時のユダヤ人たちは、イエスの話を誤解し、自分勝手な解釈をしてしまい、救いから程遠い状態にありました(21-22節)。偏見や先入観をまず捨てて、イエスの話の真意を汲み取る努力をしなければなりません。パリサイ人たちはイエスについて関心があり、「イエスは誰か」を知りたいとと思って、その質問をしたのですが、信仰がないためにわからないのです(25節)。今日の私たちにも当てはまります。素直な気持ちでイエスの話に耳を傾けましょう。
II. イエスは御父から聞いたことをそのまま世に告げられる
御父は真実な方ですから、遣わされたイエスも御父から聞いたことをそのまま世に語る時、それらはすべて真実です(26節)。イエスはまた、表現を変えて、ご自分からは何事もせず、ただ御父がイエスに教えられたとおりに、話しておられると言われます(28節)。イエスを信じるならばそのことがすべて真実であることがわかるのですが、彼らにはわかりません。しかし、やがて彼らはイエスを十字架につけてしまう(「人の子を上げてしまう」)時が来ます。その時、彼らはイエスが誰であるか、また、イエスが御父から教えられたとおりに、すべてしておられたことを知るようになります。確かに、主イエスがよみがえられて、約束の聖霊を下されたペンテコステの日には、多くのユダヤ人が心を開いてイエスを信じることができました(使徒2:36-41)。その時、彼らの高ぶった思いが低くされ、聖霊の働きによって、目が開かれ、イエスご自身の本当の姿と自分たちがしてしまった大きな罪がわかったのです。イエスが話されたこの時、多くの者がイエスを信じました(30節)。でも真の意味での信仰ではなく、限界のある信仰と言えるでしょう。 |