礼拝説教

2013年5月26日

「神のわざが現れるために」
ヨハネの福音書 9章1〜12節

 一つのみことばが、一人の人の魂を生かし、それまでの悲観していた生き方から希望に満ちた生き方へと変えられた人たちが何人もいます。「今日のみことば」にあるヨハネ9章3節がまさにそのようなみことばです。今朝もイエスがなさったみわざを見て行きましょう。

 I. かつては盲目であった
 9章は8章59節に続いていると思われます。イエスは弟子たちと宮から出て歩いて行かれ、道端に生まれつきの盲人を見られました。弟子たちの質問は、極めて冷たいものでした、「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したのですか。この人ですか。その両親ですか。」(2節)確かに聖書の中に、本人や親の罪が人を不幸にする箇所があります(例えばIコリント11:29-30、出エジプト20:5)。イエスの時代にも罪と災難の因果関係が一般に認められていたと考えられます(ルカ13:2-5参照)。しかし、弟子たちの視線には盲目の人に対する同情や愛が感じられません。イエスのお答えはすばらしいものでした。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(3節)世の中に起こる多くの出来事の原因を考えても、何の解決にもならないことが少なくありません。イエスは原因ではなく、目的に弟子たちの目を向けさせます。この生まれつきの盲人を通して神のわざが現れるためにこの人は存在している、とイエスは言われるのです。この人に神の栄光が現れるのです。

 II. 今は見えるようになった
 イエスは続けて4-5節のことばを言われます。「わたしたち」はイエスと弟子たちを指しています。「昼の間」とはイエスが地上におられる間のことです。「夜」はイエスが世を去って御父の御許に行かれる時を指します。イエスの十字架に至るまでの一連のみわざは、すべてイエスが地上におられる間に行われなければなりません。そしてイエスの世の光なのです。イエスがこの盲人の目を開ける時に用いられた「つばきをして、作った泥」(6節)は何のために必要だったのでしょうか。この人は生まれつき目が見えないのですから、イエスが目を開ける次第をわからせる目的があったのでしょう。それに、この人に「行って、シロアムの池で洗いなさい」(7節)と命じることは、この人の信仰と主への従順を与えるためでもあったと言えます。彼は従順に従いました。すると、見えるようになって、帰って行きました。このシロアムは、「遣わされた者」の意味を持っている通り、イエスご自身を指していると言えます。このいやしはもちろんイエスご自身がなさった奇蹟です。彼は直ちにイエスを証ししました(8-11節)。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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