一般に世の中にはふた種類の人たちがいます。まず、自分は霊的には盲人であり罪人で、このままではどうしようもない人間だ。だから目が開かれる必要がある、という人たちがいます。他方、自分はすべてがわかり、何とか一人で生きて来たし、これかも最後までやっていける。自分には救いは必要ない、という人たちがいます。イエスの時代も状況はまったく同じでした。
I. 目が見えるようになる
生まれつき盲人だった人は、イエスによって目が開かれて、見えるようになり、自分を見えるようにしてくださった方を証ししたので、会堂から追放されてしまいました。もう皆と一緒に会堂に集まり、礼拝すことができません。さらに、同胞のユダヤ人たちとも交わりを持つことができなくなりました。そのことを聞いたイエスは、彼を見つけ出して言われました。「あなたは人の子を信じますか」(35節)。「人の子」とはユダヤ人たちが待ち望んでいたメシヤ=キリスト=救い主のことです。その人は言いました。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように(その方を教えてください)」(36節)。イエスは、「あなたが話しているのがそれです」と言われました(37節)。これは、イエスがサマリヤの女にご自分を紹介したのと同じようなパターンです(4:26)。この人は「主よ。私は信じます」と言ってイエスを拝しました。イエスを救い主と信じ、拝んだのです。彼の霊的な目は完全に開かれたのです。
II. 目が見えないようになる
一方、パリサイ人の中でイエスとともにいた人たちがいました。彼らはイエスと盲人だった人との会話の一部始終を聞いていました。彼らは「私たちも盲目なのですか」と尋ねました(40節)。その真意は「私たちも盲目なのではないでしょうね」と打ち消しを期待した質問です。イエスのお答えは極めて厳しいものでした。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう」(41節)。これは、彼らが自らの霊的な盲目の状態を認め、目が開かれ、救い主のことがわかって、救いを求めるようになるのなら、罪はないことを意味します。しかし彼らは、「私たちは目が見える」、つまり自分たちはすでに救われていて、改めて罪を認め、イエスを救い主と認める必要なないと言い張るのです。彼らの罪は残るのです。イエスはこう言われました。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目になるためです」(39節)。彼らは依然として霊的な盲目の状態のままに置かれるのです。同じことが私たちにも言えます。気をつけなければなりません。 |