礼拝説教

2013年6月16日

「わたしは良い牧者です」(1)
ヨハネの福音書 1章1〜10節

 イエス・キリストをイメージした場合、恐らく子羊を腕に抱いておられる羊飼いの姿ではないでしょうか。主を羊飼い、そして私たちを牧場の羊と表現するのは極めて自然です。今日の箇所は、「わたしは羊の門です」とご自分をもう一つの役割を加えて自己紹介しておられますが、「門」は「羊飼い・牧者」と深く関わっています。

 I. 良い牧者は羊の名を知っている
 羊は、日中は広々とした牧場で牧草を食べながら過ごしますが、夜になると囲いの中に入れられ、外敵から守られて安全に過ごします。囲いには「門」があり、牧者は必ず門から入ります(2節)。ところが、羊の囲いに門から入らず、柵を乗り越えて来る者があります。それは盗人で強盗です。彼らは羊を盗むためにやって来るのですから、羊の名を知りませんし、羊も盗人たちの声を知らないので、ついて行きません。羊は、牧者の声は知っていて、彼が羊の名を呼んで、連れ出す時、彼について行きます(4節)。今日の箇所は、当然のことながら、良い牧者はイエス様を指しています。盗人で強盗と言われる者は、ユダヤ人の宗教的指導者—パリサイ人たちや律法学者を指しています。良い牧者のイエスは、私たち一人ひとりの名を呼んで導き、養って下さいます。また主イエスは「わたしは羊の門」と言われる時、ご自分の羊をご自分の保護のもとで守ってくださることを示しているのです。

 II. 良い牧者は羊を養い育てる
 今日の箇所では、本当の牧者とそうでない盗人・強盗である宗教的指導者のことが繰り返し書かれています。羊たちは「ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです」(5節)と、イエスは、一般民衆がパリサイ人たちを信頼していないことをはっきりと言っておられます。でもこの喩えのゆえに人々は何のことかわかりませんでした。イエスはまた、8節と10節でも民衆は指導者の言うことを聞かなかったこと、彼らは民衆を養うどころか、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために来たと言っています。その反対に、良い牧者であるイエスは、「わたしは門です」と言われるように、だれでもそこを通って入るなら、救われ、安らかに出入りし、牧草を見つけるように導いてくださいます(9節)。実にイエスが来られたのは、「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため」(10節)なのです。羊である私たちもまた、イエスのもとで、外敵から守られ安らかに生活が出来るだけでなく、いのちを与えられ、しかも豊かに持つことができるのです。主の恵みを感謝しましょう。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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