礼拝説教

2013年8月4日

「イエスは涙を流された」
ヨハネの福音書 11章28〜37節


 イエスが神の御子であり、人であることは、イエスは豊かな感情の持ち主方であることが想像されますが、まさにその通りです。今日の箇所には、イエスが「涙を流された」という短い表現と「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」たという表現もあります。共にラザロの死と姉妹たちの悲しみとに関わっているのです。まず、死について考えてみましょう。

 I. 死は悲しい現実である
 マルタやマリヤにとって、愛する兄弟ラザロの死がどんなに切なく悲しいものであるかは、容易に想像出来ます。多かれ少なかれ、私たちにも同じような経験があるからです。死は様々な形でやって来るでしょう。長い間の病気の末や突然の事故で、あるいは、天寿を全うするような形で、など一様ではありません。しかし死に共通するものがあります。それは愛する人たちとの悲しい別れという事実です。確かにこの世では、もう再び会うこともことばを交わすこともできません。イエスもラザロの死によってマルタたちが泣いているのをご覧になって、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて」、「彼をどこに置きましたか」と言われました(33-34節)。この感情の表現をどのように考えるか、むずかしいのですが、イエスは死という人々を悲しい思いにさせる現実とその原因である罪に対して霊の憤りを覚え、心の動揺を感じたと思われます。原罪という誰一人として避けられない罪の現実とその結果の死に対して憤られたのでしょう。イエスはラザロの墓を見て、「涙を流され」ました。姉妹たちに対する深い愛の表れです。

 II. イエスこそ死を解決される方です
 イエスは、「わたしはよみがえりです。いのちです」(25節)と言われました。イエスは、私たちの罪のために十字架にかかれれて死に、三日目によみがえりました。イエスは死に打ち勝ったのです。ペンテコステの日にペテロが「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです」(使徒2:24)と言ったとおりです。元々いのちそのものである方が、いつまでも死んだままの状態であり続けることはあり得ません。イエスは死に打ち勝たれ、また死の原因でもある罪の解決もされました(ローマ4:25参照)。確かにこの世にあっては、私たちは愛する人たちを天に送り、しばらくとはいえ、悲しい別れがあります。でも死は終わりではありません。再び主にあって愛する人と相まみえることができるのです。ここに希望と慰めがあります。また、死が恐ろしい未知の経験でもありません。すでにイエスが体験し、しかも戻って来られたのです。私たちは、先に亡くなった愛する人たちのところへ行くことになりますが、そこにはイエス様もおられるのです(ヨハネ14:1-3参照)。主イエスを信頼して歩んで行きましょう。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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