礼拝説教

2013年9月15日

「一粒の麦として死なれる方」
ヨハネの福音書 12章20〜26節

 主イエスは自然のものから真理の説明をなさり、しかもその喩えは非常にわかりやすい場合が多いのです。今日ご一緒に学ぶ喩え「一粒の麦」も主イエスの十字架の死とその結果結ぶすばらしい実について説明しています。

 I. イエスは一粒の麦として死なれる
 主イエスがこの有名な「一粒の麦」の話をされた時のことが記されています。過越の祭りの時、礼拝のためエルサレムに上って来た人々の中にギリシヤ人が何人かいました。彼らは恐らく神を畏れる者だったと思われます。まことの唯一の神を信じ、改宗者にまでは至りませんが、時々エルサレムの宮で礼拝をささげる人たちです。彼らはイエスに是非お会いしたいと思って、ピリポの所に来ました。ピリポはギリシヤ人の名前で、何らかの関係でギリシヤ人と接点があったのでしょう。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポはイエスに話しました。主が彼らに言われたことは、24節の不思議な喩えでした。イエスはまずご自分が「栄光を受けるその時が来ました」(23節)と言われ、それは十字架にかかって死なれることですが、それを「一粒の麦」にたとえて話されたのです。確かに、一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままですが、死んで、腐るならば、やがて芽が出、花が咲き、豊かな実を結びます。

 II. イエスの弟子たちも一粒の麦である
 イエスが十字架にかかられて、死なれ、三日目によみがえられたことによって、救いの道が開かれ、イエスを信じる多くの人たちは、罪の赦しと永遠のいのちという祝福をいただくことができます。もし、イエスが十字架への道に進まずに、そのまま御父の許へ行かれたなら、救いの道は開けなかったことになり、私たちは依然として罪の中にいることになります。ですから、イエスの十字架のみわざは非常に大切なのです。では、私たちはどうすべきでしょうか。私たちに求められていることは、この世のいのちではなく、永遠のいのちを求めることといつまでも主イエスのそばにいて、主に仕えることです。それはこの世にある財産や名誉、地位、時には父や母を捨てて、イエスに従うことを意味するでしょう。マタイ10:37のイエスのおことばが「一粒の麦」の真意を伝えていると言えます。私たちの人生は、結局イエスを取るか、この世の栄華を取るか,二者択一なのです。イエスを信じ、どこまでも従って行きましょう。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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