ペテロが主イエスを三度知らないと言ったことは、聖書に書かれていて、多くの人が知っている事実です。一方イスカリオテのユダは主をお金で指導者たちに売り渡すという裏切り行為をしてしまいました。共に似ている点もありますが、大きな違いもあります。ペテロを取り上げて見てみましょう。
I. ペテロは主の真の姿も自分の弱さも知らなかった
イエスが先に言われたこと(33節)の意味がわからず、「主よ。どこにおいでになるのですか」(36節)と尋ねました。これに対してイエスは、「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし、後にはついて来ます」と、今と後を比較して答えられました。ペテロは、イエスが御父の御許へ帰られること、それは十字架の死と復活、昇天によることがわかっていませんでした。ただ何となく、死なれることはわかりました。その上、ペテロは誰にも負けないイエスへの愛があると自負していました。だから「主よ。なぜ今はあなたについていくことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます」(37節)と言い切ったのです。その時のペテロは確かに死ぬ覚悟ができていると信じていたのでしょう。ところがイエスが言われたことは38節の厳しい予告でした。そしてそれは少し後で実現したのです(18:15-17,25-27)。彼は自分の弱さを知らなかったのです。
II. ペテロは悔い改めて、イエスによって立ち直った
ペテロはイエスの裁判がどうなるのか気が気でなく、恐らく弟子のヨハネに連れられて、大祭司の中庭に入り、人々と共に火を囲んで暖まっていました。その時、まず門番のはしための女に「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」尋ねられ、ペテロは「そんな者ではない」と答えました(18:17)。しばらく間を置いて、人々が同様の質問をペテロにし、彼は否定し、最後に耳を切られた大祭司のしもべの親類の者が確信的に尋ねて、ペテロは、もう一度否定したのです(25-26節)。すると直ぐに鶏が鳴きました。ほかの3つの福音書を見ると、彼はイエスのおことばを思い出して「出て行って、激しく泣いた」(マタイ26:75)、「彼は泣きだした」(マルコ14:72)、「彼は、外に出て、激しく泣いた」(ルカ22:62)とあります。この時ペテロは、自分の弱さを認めると共に、大切な悔い改めをしたのです。その結果、イエスは後にペテロを懇ろに扱われ、立ち直らせたのです(21:15-17)。 |