イエス・キリストは、もともと御父の御許におられた方が人となって生まれてくださった方です。ですから、外見では人ですが、神性を持っておられ、本質的には神であり人である方です。多くの人たちにとって理解しにくいところですが、イエスの弟子たちもよくわからなかったのです。主は、ピリポの質問に答えながら、ご自分の本当の姿を明らかにしておられます。
I. イエスを見た者は御父を見たのである
イエスが、「今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです」(7節)と言われた時、弟子のピリポは「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」(8節)と言いました。イエスと弟子たちとの一連の会話は、咬み合っていませんでした。弟子たちは、イエスが7節で言われたことがよくわかりませんでした。確かに人間は父なる神を目で見ることはできません。御父は決してご自分の姿を見せることはなさいません。しかし、御父のことを人々にわからせるために、イエスがこの世に来てくださったのです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(1:18)。とあるとおりです。イエスご自身の中にすべての神の本質が宿っています。だから、イエスを見れば御父を見たことになり、イエスを知れば、御父を知ったことになるのです(7,9節)。
II. イエスは御父におられ、御父はイエスにおられる
イエスと御父との密接な関係は私たち人間の理解を超えています。ですから、私たちはイエスが言われることを素直に受け取らなければなりません。イエスは御父におられます。同時に御父はイエスにおられます。従って、イエスが話されることは、イエスがご自分の考えを話されると言うよりは、イエスのうちにおられる御父が話しておられるのです。またイエスがみわざをなさる時も、イエスご自身ではなくて、イエスのうちにおられる御父がわざをなさっておられるのです(10節)。この真理は信仰をもって受け入れるだけです。しかし、なお信じられるカギがあります。それは、イエスがなさるわざが、人間のわざではなく、神のわざだからです。イエスがこれまでなさってきた数々のみわざは、まさに神がなさるわざ、奇蹟にほかなりません。この点でもイエスと御父は一つなのです。そしてわざを見て、私たちはイエスが御父におられ、御父がイエスにおられることを信じることができるのです(11節)。12節の、イエスの行うわざよりも「さらに大きなわざ」とは、ペンテコステの後、助け主・聖霊の働きによって、弟子たちが行う福音宣教によって、多くの人たちがイエスを信じるすばらしい奇蹟を指していると考えられます。 |