礼拝説教

2014年3月16日

「イエスはまことのぶどうの木」
ヨハネの福音書 15章 1〜8節

 イエスと弟子たちとの関係をまことのぶどうの木とその枝との関係にたとえる表現は、大変わかりやすく、同じく弟子である私たちの信仰生活に有益と考えられます。当時のユダヤ人にとって、ぶどうの実やその実から作ったぶどう酒は、日常の生活にとってなくてはならない食べ物、飲み物でした。今日もイエスのお話しから学びましょう。

 I. 弟子たちはイエスにどどまっていなければならない
 弟子たちはぶどうの木であるイエスにとどまり続けることが大切です。イエスにとどまるとは、これまでイエスが言われたことから、イエスを主であり救い主であると信じ、信じつづけることと考えられます。イエスを信じることによってイエスからいのちの糧であるおことばをいただきます。弟子たちは、そして私たちも、おことばを受けて、霊的に成長します。またイエスからおことばをいただいて、きよくされます(3,7節)。ぶどうの枝は木に結びついていなければ木から栄養分をもらえませんから枯れてしまいます。同様にイエスから霊の糧をいただかなければ、私たちは霊的に死んでしまいます。そのような人は木から切り離されて、投げ捨てられ、枯れてしまいます。またイエスにとどまっている人は、イエスから愛をいただくことができます。来週学ぶことになりますが、イエスの木にとどまっている人は、イエスから大きな愛を受けますから、ますますイエスを愛し、従うことができるようになります。

 II. 弟子たちは多くの実を結ぶ
 枝が木についていれば、枝は多くの実を結びます。「今日のみことば」(5節)にあるとおりです。多くの実を結ぶためには、枝は剪定される必要があります。それは弟子たちが、みことばによってきよくされることを意味していると言えるでしょう(2-3節)。御父によって、またイエスご自身によって、弟子たち、私たちは罪や汚れを取り除いていただきます。まず「きよさ」という実を結びます。そして御霊の実である「愛、喜び、平安」などの実を豊かに結ぶのです。イエスを離れては、私たちは何の実も結ぶことができません。何の有益な働きもすることができません。また、弟子たちがイエスにとどまり、イエスのおことばが弟子たちにとどまるなら、弟子たちは何でもほしい物を求めなさいと、イエスは言われます(7節)。そうすれば何でもかなえられるのです。イエスは、このようにすばらしい約束をしてくださいます。さらに、弟子たちが多くの実を結び、イエスの弟子となることによって、御父は栄光をお受けになるのです(8節)。弟子たち、そして私たちは、何というすばらしい特権に与っていることでしょう。

  今泉キリスト福音教会 牧師:岡本 昭世 【説教インデックスへ
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