イエスの弟子たちは互いに愛し合い、尊敬し合っていたかというと、実際はむしろ、彼らの中で誰が一番偉いかと互いに競い合い、反目し合っていました。それはイエスと弟子たちがエルサレムに向かって進んでいく時も(マタイ20:20-24)、今このエルサレムの2階座敷で最後の食事をしている時も(ルカ22:24)、変わっていませんでした。そのような彼らにとって一番大切なことは、互いに愛し合うことです。イエスはこの戒めをもう一度取り上げました。
I. イエスは弟子たちを愛された
イエスの戒めは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛すること」(12節, 17節も)です。そのイエスの愛は次のように考えられます。まずそれは、この福音書の著者ヨハネがこれまで伝えているように、イエスは十字架にかかられるまで、すなわち最後の最後に至るまで弟子たちを愛された、ということです(ヨハネ13:1)。イエスの愛は最初から最後まで一貫して変わらなかったのです。それはまた、イエスが十字架において死なれたことも意味しています。イエスはこう言われます。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(13節)。すべての人をその罪と死とさばきから救うためにイエスは十字架にかかって死んでくださいましたが、それは愛する弟子たちを救うためであったことがわかります。さらにイエスの愛は、自分に敵対する人々のために死なれたことでもあるのです(ルカ23:34, ローマ5:8)。実にイエスの愛は私たち人間が考えられるような愛から遥かに高く、深い愛なのです。
II. 弟子たちも互いに愛し合うべきである
このように彼らの主であり師であるイエスの愛のレベルは限りなく高いのですが、なおイエスは弟子たちが互いに愛し合うように命じられました。もし彼らが互いに愛し合わないで、反目し合っていたなら、間もなく始まる福音宣教と教会建設はきっと成功せず、失敗に終わることが予想されるからです。使徒たちによって形成される教会の兄弟姉妹が、互いに愛し合って初めて、キリストの教会が成り立っていくのであり、周りの人々がそれを見て、自分たちもぜひ教会に入ってみよう、彼らと生活を共にしてみようと思うからです。弟子たちはこのイエスのご命令に従うことができたのでしょうか。それは初代教会の姿にはっきりと現れていると言えるでしょう(使徒:37-47)。同胞ユダヤ人たちの迫害の中で始められた福音宣教と教会形成は、彼らの互いの愛の中でこそ成り立っていったのです。そうでなければ、外からの迫害に耐えられず、さらに中からの反目によって脆くも崩れてしまったことでしょう。弟子たちは確かにイエスの愛の戒めを守ったのです。Iヨハネ手紙3:16を読んでみましょう。 |